豊臣秀吉(とよとみひでよし) 天文六年 (1537年)〜慶長三年 (1598年)

豊臣秀吉

戦国・安土桃山 (あずちももやま) 時代の武将 (ぶしょう) 。織田信長 (おだのぶなが) につかえて立身し、後に天下統一 (てんかとういつ) を達成 (たっせい) した。

武力による天下統一

豊臣秀吉の子ども時代は、農家の子であったとか、足軽 (あしがる=とほで戦う人) の子であったなどさまざまな説がありますが、いずれにしても貧 (まず) しい境遇 (きょうぐう=事じょう) だったようです。それが青年時代に織田信長につかえて、数々の戦いで手柄 (てがら) をたて、次第に頭角 (とうかく=すぐれて目立つ) をあらわします。

本能寺で明智光秀 (あけちみつひで) が織田信長を暗殺 (あんさつ=ひそかにころすこと) した後、秀吉は合戦 (かっせん) で明智光秀を倒しました。この後、豊臣秀吉は織田信長の後継者 (こうけいしゃ) となりました。その後は四国、九州、関東、東北の大名を次々としたがえ、天下統一を果たしました。

しかし、それは武力による天下統一でした。豊臣秀吉は、ここから本当の天下統一の事業を始めます。さまざまな施策 (せさく) により、農業を基礎 (きそ) とした天下統一を果たすのです。

太閤検地 (たいこうけんち) で農業を基礎とする天下統一へ

豊臣秀吉は、自らを太閤と称 (しょう) しました。豊臣秀吉が全国的に行った検地を太閤検地といいます。

検地とは田畑を測量 (そくりょう) し、米や麦などのとれ高を調べることです。秀吉はそれまで領地 (りょうち) ごとにまちまちだった面積の単位や、米の量をはかる枡 (ます) などの検地の基準 (きじゅん) を統一しました。また田や畑は、とれ高などにより4段階 (だんかい) に区分しました。これにより、全ての村の生産高がわかり、税 (ぜい) を公平にかけることができました。こうして豊臣秀吉の、農地を基礎とした全国統一が果たされ、後の江戸 (えど) 時代の社会の基礎となるシステムができたのです。

戦いをやめようというメッセージ

戦国時代の争乱 (そうらん) をねだやしにし、平和な国土を作ろうと、豊臣秀吉は太閤検地と同時にさまざまな施策をうち出しました。大名の間の争いをなくして、平和を求めました。また、村と村との争いをなくす喧嘩停止令 (けんかちょうじれい) も出しました。そこに一貫 (いっかん) して打ちだされている、戦いをやめようという秀吉のメッセージは、戦国時代につかれた人びとの支持 (しじ) をえたと想像 (そうぞう) されます。

戦国時代は終わり、村に平和がおとずれた

戦国時代は、戦地となった村は、田畑はあらされて、米や麦などの作物はうばわれました。村人は、わざわいをさけるために、山ににげこんだりしなければなりませんでした。もちろんその間は田畑の仕事はできません。

農村の出身ともいわれる豊臣秀吉は、城をとりかこんで食べ物の供給 (きょうきゅう) をたつ兵糧攻め (ひょうりょうぜめ) がとくいでした。そして味方 (みかた) の食べ物は常に確保 (かくほ) していたようです。貧しい境遇から天下統一を果たした豊臣秀吉は、米の大切さを身にしみて知っていたようにも想像できます。

戦国時代にその運と実力で天下統一の夢を達成した豊臣秀吉。その夢はときには野望とも呼ばれます。しかし、百年も続いた悲惨 (ひさん) な戦国時代に終止ふを打ち、平和をもたらしたのが豊臣秀吉であることもたしかです。

武田信玄 (たけだしんげん)

石田三成 (いしだみつなり)