徳川光圀(とくがわみつくに) 寛永五年 (1628年)〜元禄十三年 (1700年)

徳川光圀

水戸藩 (はん) の第二代藩主 (はんしゅ) 。「大日本史」の編集 (へんしゅう) に着手。歓農策 (=農業をすすめること) のじっしなどに力を注いだ。水戸黄門 (みとこうもん) ともよばれて、したしまれている。

5才まで (ひみつ) で育てられ、庶民性 (しょみんせい) を身につける

徳川光圀は寛永 (かんえい) 五年 (1628年) に生まれ、5才まで秘密で育てられました。水戸藩主の三男で、徳川家康 (とくがわいえやす) の孫なのですが、理由は分かっていませんが、5才までその身分はかくされ庶民の子どもとして育てられたのです。この5才までの経験 (けいけん) が、水戸黄門伝説につながる光圀の庶民性をやしなったともいわれています。

光圀は6才のとき、兄の頼重 (よりしげ) をこえて後つぎに決められました。そして、江戸小石川の水戸邸 (みとてい) へうつり、藩主としての教育を受けることになります。おさないころは、塀 (へい) や屋根の上を走り回るような腕白 (わんぱく) な少年だったようです。青年になると、今度は遊興 (ゆうきょう) にふけります。色あざやかなファッションに身をつつみ、江戸の繁華街 (はんかがい) をうろついたり、辻相撲 (つじずもう) に飛び入りで参加したり、三味線 (しゃみせん) まで楽しむようにもなりました。家臣 (かしん) がいさめても、おさまる気配がありませんでした。しかし18才のとき「史記 (しき) 」の「伯夷 (はくい) の伝記」を読み、深い感動を覚えます。

光圀は、伯夷と叔斉 (しゅくせい) 兄弟の後つぎのゆずり合いの話を読み、兄をこえて後つぎとなったことに心をいためます。そして、いつかは兄の子を養子にして後つぎにしようとかたく決意します。また、読書が人格のかくりつに重大であると考え、生がい学問をしようと決めます。日本の歴史を編集する志 (こころざし) を立てたのも、史記にならったものだと伝えられています。

水戸様のお百姓 (ひゃくしょう) になりたいものだ

光圀は、34才で第二代水戸藩主となりました。光圀は、藩政 (はんせい) の改革 (かいかく) に取り組みました。特に、農民の苦しい生活に心をいため、数々の施策 (しさく) を実行します。領内 (りょうない) を歩き、きびしい生活にあえぐ農民の生活を思いやり、藍 (あい) ・紙・鮎 (あゆ) ・鱒 (ます) などの税 (ぜい) を免除 (めんじょ) しました。藩としては収入 (しゅうにゅう) がへるので、反対の声が上がりましたが、光圀は「民の困窮 (こんきゅう) をみて国用の不足を意とせず」と、この政策を断行 (だんこう=決だんして行うこと) したと伝えられています。

光圀はもちろん、自身もきびしく倹約 (けんやく) しましたが、それだけではなく、度々 (たびたび) 節約令を出して、農民のそれぞれの家の財政 (ざいせい) を立て直させようとしました。それでも効果 (こうか) がないと見ると、農民に金をかしました。さらに、飢饉 (ききん=農作物が実らず、うえ苦しむこと) にそなえる倉 (くら) の設置 (せっち) など、あらゆる方法で農民の生活を助けようとしました。ひたすら領民 (りょうみん) の生活を思いやり、藩内外から名君とあおがれ、他の領地の農民が「水戸様のお百姓になりたいものだ」とため息をついたと伝えられています。

年貢 (ねんぐ) も農民を信頼 (しんらい) して自己申告制 (じこしんこくせい) に

また、光圀は村々を歩いて、親孝行な農民などの話を聞きつけると、自ら出向いて、褒美 (ほうび) をあたえます。たとえば、ある農民が父の死後、歩くことのできない老母を毎日畑に背負 (せお) っていき、常にいたわっているのを聞いて、その家に行き、金をあたえて田畑を買い求めさせたなど、数々のエピソードが伝えられています。

また、領地の農民から年貢米 (ねんぐまい) を納 (おさ) めさせるとき、年貢の量を決める役人を現地に送らず、農民たちの自己申告で量を決めました。これは、農民を信じようという気持ちと、役人が接待 (せったい) を受けると村の出費 (しゅっぴ) がかさみ、農民が苦しむことになるのをふせぐ目的からじっしされたようです。

隠居 (いんきょ) 後は自身で田んぼをたがやし、年貢を納める

光圀は60才をこえると、18才の時に決意した通りに、兄の子を後つぎにして隠居しました。食事は一汁二菜 (いちじゅうにさい) 、夜具はうすい寝間着 (ねまき) が一枚、布団 (ふとん) も一枚というつつましい生活だったようです。

隠居後は、自ら田んぼをたがやし、年貢を納めたと伝えられています。近所の農民たちとも親しくし、また身分をかくした質素 (しっそ) な身なりで村々を歩いて、人びとのくらしを見ていたようです。あるときうっかり、農家の庭先の米俵 (こめだわら) にこしをかけて、老婆 (ろうば) にほうきでたたかれた、などの伝説が残されています。この伝説そのものは事実かどうか定かではありませんが、質素な身なりで村を歩いていたという話はたくさん残っています。

徳川光圀は、水戸黄門とも呼ばれています。光圀は、「大日本史」を編集するときに、史料を収集するために、全国各地に家臣を派遣 (はけん) しました。これが全国旅行というフィクションに転換 (てんかん) され、また質素な身なりの伝説、そして役人に対抗 (たいこう) してつねに農民に味方していたというイメージから、光圀の死後100年ぐらいから黄門伝説が作られていき、江戸 (えど) 末期から明治になって、講談 (こうだん) によって全国的人気となる「水戸黄門漫遊記 (まんゆうき) 」のお話が作られたと思われます。「水戸黄門漫遊記」は架空 (かくう) のお話ですが、農民たちにとっては理想的な名君の物語として人気をはくし、長く農民の心をささえました。

宮崎安貞 (みやざきやすさだ)

お千さん (おせんさん)