石田三成(いしだみつなり) 永禄三年 (1560年)〜慶長五年 (1600年)

石田三成

安土桃山 (ももやま) 時代の武将 (ぶしょう) 。豊臣秀吉 (とよとみひでよし) の家臣 (かしん=けらい) で、経済 (けいざい) ・財政 (ざいせい) 面で活やくした。

気配りを見こんで豊臣秀吉がスカウト

石田三成は永禄 (えいろく) 三年 (1560年) に近江国 (おうみのくに=今のしが県) の豪族 (ごうぞく) の家に生まれました。寺でしゅぎょうをしていた15才の時に豊臣秀吉に気に入られて、家臣となりました。気に入られた理由が、ゆうめいな3ばいのお茶のエピソードです。

秀吉がタカがりのとちゅうで寺に立ちより、お茶をがほしいとたのみました。少年が最初に持ってきた大きな茶わんには、ぬるめのお茶がたくさん入っていました。のどがかわいていた秀吉は一気に飲み、2杯目をたのみました。2杯目の茶わんは前にくらべると小さく、湯はやや熱めで量は半分ぐらいでした。これも飲み、3杯目をたのむと、今度は舌 (した) の焼けるほどの熱いお茶が少しだけ入っていました。喉 (のど) のかわきはいえたであろうと思い、今度はゆっくりと味わうためのお茶を出したのです。秀吉はこの少年の気配りに感心して家臣にしました。この少年が後の石田三成です。

太閤検地 (たいこうけんち) の推進役

豊臣秀吉が天下統一 (てんかとういつ) を果たし、戦乱 (せんらん) もおさまり平和な時代になると、石田三成は太閤検地では、全国各地の検地をじっしし、専門家 (せんもんか) となっていきました。その方針は公平で、七ヶ条の誓 (ちか) いを定めています。その七ヶ条は、「お礼をもらって容赦 (ようしゃ=ゆるすこと) したりしない」「主人に対して不心得な考えを持たない」「部下がお礼をもらわないように指示する」「不心得者がいれば、ほうこくする」「農民に対して、威張 (いば) らない」「村ににくい者がいるからといって意地悪い検地をしない」などで、自分の領地 (りょうち) で善政 (ぜんせい) をしていたと伝えられる石田三成らしい内容です。

淀川が氾濫 (なんらん) したときに米の俵 (たわら) で水をふせぐ

石田三成の機転 (きてん=気がよく働くこと) についてはこういう話もあります。ある夜、豪雨 (ごうう) がふり続き淀川の堤 (つつみ) が破れそうになりました。堤が破れると大坂の町も、田畑も水びたしになってしまいます。武士や農民が洪水 (こうずい) をふせごうとしましたが、土をつめた俵 (たわら) 作りが間に合いませんでした。石田三成が馬に乗ってかけつけ、これ以上猶予 (ゆうよ=ためらうこと) はならないと判断しました。そして、「大坂城の米倉を開け、米の俵を土の俵の代わりにして堤を補強 (ほきょう) せよ」と命令したそうです。人びとは、もったいないことをするものだと思ったでしょう。しかし、数千もあった米の俵を使ったおかげで補強が間に合い、大坂の町も田畑も、洪水から守られました。

翌日、雨があがって洪水の危機 (きき) がさったと判断したとき、石田三成はふたたび命令しました。「土の俵を作って、米の俵と交換 (こうかん) していきなさい。本物の土の俵で補強をした者には、その米の俵を褒美 (ほうび) とする。交換してやる」。人びとはこれを聞いて喜び、いっせいに土の俵作りを始めました。そして短期間で本格的な修復 (しゅうふく) ができたと伝えられています。

亡 (な) き秀吉のために関ケ原 (せきがはら) で合戦 (かっせん)

気配りによって豊臣秀吉にスカウトされた石田三成は、秀吉の天下統一により、平和がおとずれるにつれて力をはっきしてきたように思えます。その知性派 (ちせいは) ともいえる石田三成が最後には豊臣秀吉への忠誠 (ちゅうせい) をつらぬき、豊臣家をまもるために、わずか19万4千石の中堅 (ちゅうけん) の大名でありながら巨大 (きょだい) な徳川家康に関ヶ原の合戦をいどみ、刑死 (けいし) することになります。

石田三成にとっては太閤検地で諸国 (しょこく) の村をまわり、平和が続くかに思えた日々が、もっとも幸福な時代だったのではないでしょうか。平和が続き、検地通りに作物が生産できる、そんな時代を夢見ていたように思えてなりません。

豊臣秀吉 (とよとみひでよし)

沢庵宗彭 (たくあんそうほう)