坂本龍馬(さかもとりょうま) 天保六年 (1835年)〜慶応三年 (1867年)

坂本龍馬

幕末 (ばくまつ) の志士 (しし) 。薩長同盟 (さっちょうどうめい) をコーディネートして、大政奉還 (たいせいほうかん) に力をつくした。北海道開拓 (かいたく) に着手し、後に龍馬の遺志 (いし) を受けついだ甥 (おい) が北海道開拓を実現 (じつげん) する。

勝海舟 (かつかいしゅう) の教えで、世界へ目を向ける

坂本龍馬は、天保 (てんぽう) 六年 (1835年) 、高知城 (こうちじょう=今の高知市) で、武士の次男として生まれました。18才のときに江戸 (えど) に出て剣を学び、北辰一刀流 (ほくしんいっとうりゅう) の免許皆伝 (めんきょかいでん) となります。剣の腕前 (うでまえ) は一流であったと伝えられていますが、その生がいで人を斬 (き) ることはありませんでした。

このころ、米国のペリーの来航 (らいこう) などで、志士は開国派 (は) と、鎖国 (さこく) を続けるという2つの意見で対立していました。竜馬も志士活動を開始します。志士とは、高い志 (こころざし) を持って、国家・社会のために、自分の身を犠牲 (ぎせい) にしてつくそうとする人のことです。

薩長同盟をコーディネートし、大政奉還に力をつくす

このころ、反幕派 (はんばくは) は、幕府 (ばくふ) から朝廷 (ちょうてい) に政権 (せいけん) を返上する大政奉還を主張 (しゅちょう) していました。武力による倒幕 (とうばく=たおす) です。しかし、龍馬は平和的な手段 (しゅだん) による大政奉還を実現しようと考えたようです。龍馬は、対立していた薩摩藩 (さつまはん) と長州藩 (ちょうしゅうはん) を結び、薩長同盟を実現します。薩長同盟という武力倒幕の強力な勢力 (せいりょく) を成立させて幕府をけんせいする一方で、統一国家構想 (こうそう) を土佐藩 (とさはん) に進言。これをきっかけに、土佐藩は10月3日、大政奉還を提言 (ていげん) する建白書 (けんぱくしょ) を幕府に提出 (ていしゅつ) しました。これを受けて、徳川慶喜 (とくがわよしのぶ) は大政奉還の許可を求め、朝廷は許可しました。龍馬の願いであった、平和的手段による大政奉還がここに実現しました。

新しい時代がスタートしました。龍馬にはさまざまな夢 (ゆめ) があったようです。しかし、大政奉還が実現した次の月、龍馬は京都の近江屋の二階で暗殺 (あんさつ) されました。慶応 (けいおう) 三年十一月十五日。龍馬33才の誕生日 (たんじょうび) でした。

北海道開拓に着手

龍馬は北海道開拓というビジョンを持っていました。北の大地・北海道は、南国出身の龍馬にとっては、情熱をかきたてられる新天地だったようです。北海道にわたる船を借りたりしましたが、代金の未払い (みばらい) などでうまくいきませんでした。

龍馬の妻 (つま) ・お龍 (りょう) も「北海道ですか、アレはずつと前から海援隊 (かいえんたい) で開拓すると言つておりました。わたしも行くつもりで、北海道の言葉を一々手帳 (てちょう) へ書きつけて毎日稽古 (けいこ) しておりました」と、龍馬と共に北海道へわたる決心をしていました。結局、龍馬はこの思いを果たすことはできませんでしたが、その夢は生き続けます。

龍馬の遺志を受けつぎ、龍馬の甥が実現

龍馬ゆかりの人びとが、彼のビジョンを受けつぎます。明治二十八年 (1895年) 。龍馬の甥である高松直寛 (たかまつなおひろ) は、未開の地・北海道に理想的な農村を作る目的で、高知県を拠点 (きょてん) として北光社 (ほっこうしゃ) を設立しました。高松直寛は龍馬に心酔 (しんすい) しており、龍馬のペンネーム・才谷梅太郎をもじり、才谷梅次郎と名乗っていたほどです。

明治三十年 (1897年) 、高松直寛をリーダーとする北光社移民団はついに北海道開拓に着手。28日間の航海を経て網走 (あばしり) へと渡航 (とこう) し、さらに3日の旅の後、野付牛 (のっけうし=今の北見市) に到着します。航海は困難 (こんなん) きわまり、途中30人ほどがハシカなどの病気で亡 (な) くなったそうです。そうして着いたところは、見わたすかぎりの荒野 (こうや) 。高知との気温差は15℃。そのかこくな環境 (かんきょう) のなか、身を粉 (こ) にして働き、ついにできたのが北光社農場です。北光社のもう一人のリーダー的存在であった前田駒次 (まえだこまじ) は、この地で水稲耕作 (すいとうこうさく) を成しとげ、農業の父といわれています。北海道開拓という龍馬の夢は命脈 (めいみゃく) を保ち、北海道の大地に開墾 (かいこん) の鍬 (くわ) が入れられ、ゆたかな農地へと結実しました。

大原幽学 (おおはらゆうがく)

福永章一 (ふくながしょういち)