二宮尊徳(にのみやそんとく) 天命七年 (1787年)〜安政三年 (1856年)

二宮尊徳

江戸末期の篤農家 (とくのうか=農業に熱心にとり組む人) 。二宮金次郎 (にのみやきんじろう) ともよばれる。貧 (まず) しい村の復興 (ふっこう) など、再建 (さいけん) コンサルタントとしてはたらき、605ヵ町村を復興させた。

逆境 (ぎゃっきょう) に負けず、はたらきながら「論語 (ろんご) 」を学ぶ少年

金次郎は、相模国栢山村 (さがみのくにかやまむら=今の神奈川県小田原市) で、農家の長男として生まれました。田畑は酒匂川 (さかわがわ) の土手ぎわにあり、洪水 (こうずい) になると泥水 (どろみず) につかることが多く、その度に借金がかさんでいくという、きびしい生活でした。

金次郎が14才のときに、酒匂川の氾濫 (はんらん) で二宮家はついに田畑を手放しました。さらに、父が亡 (な) くなります。生活は困窮 (こんきゅう=びんぼうがはなはだしい) し、金次郎はくらしをたてるために、山で薪 (まき) をとって、町へ売りに行くことにしました。薪を運びながらも、片時も本を手放さず、歩きながら勉強にはげみました。孔子 (こうし) の教えを説いた「論語」をくり返し読んだと伝えられています。

家老 (かろう) の家の財政 (ざいせい) を再建

金次郎は畑仕事の合間に商家で働き、商家の合理的なやりくりを、身につけていきました。そして、ついに24才の時には商家でもらった給金で、親の代に失なった土地を買いもどすまでになりました。また、くらしにこまった村人には無利子でお金をかし、都合のついたときに返金してくれればよいとしたそうです。

学問が好きな金次郎は、武士 (ぶし) のくらしぶりを学ぼうと、25才のときに小田原藩 (はん) の家老・服部家 (はっとりけ) に奉公 (ほうこう=住みこみではたらく) に出ました。しかし、服部家は収入以上のくらしぶりで財政は破綻寸前 (はたんすんぜん) でした。金次郎は、てっていした倹約 (けんやく) と借入金の返済 (へんさい) で、かたむきかけた服部家を4年で再建したと伝えられています。

豊富な農業知識 (ちしき) と合理性で村の復興を成しとげる

金次郎が35才のとき、再建コンサルタントとしての金次郎の手腕 (しゅわん) を見抜いた藩主 (はんしゅ) ・大久保忠真 (おおくぼただまさ) は、荒廃 (こうはい=くずれはてている) している桜町 (さくらまち) の再建を命じました。金次郎は、その再建に全力投球するために田畑や家をしょ分して、妻子とともに赴任 (ふにん) しました。

到着 (とうちゃく) して見ると、桜町は土地だけではなく、農民も役人も気持ちが荒廃した状態 (じょうたい) でした。金次郎はまず、人びとのやる気を起こさせることが大切だと考え、「善人 (ぜんにん) を登用し、勤勉者 (きんべんしゃ) をほめて、耕作 (こうさく) にはげんでいる人には無利息で金をかす」こととしました。領内を歩いては、仕事に精 (せい) を出す農民をねぎらい、こわれた家々を修理 (しゅうり) しました。また、もともと桜町が荒廃したのは、米のとれ高が低いが年貢 (ねんぐ) が高くて、農民のくらしが苦しくなり、さらに荒廃するという悪循環 (あくじゅんかん) でした。金次郎は農地を調査 (ちょうさ) して、年貢米を妥当 (だとう) なものにしました。初めは上手くいきませんでした。しかし、金次郎の誠実さが次第に伝わり、村人は変わり始めました。こうして金次郎は、桜町を復興させました。

天保の大飢饉 (だいききん) に藩の蔵米 (くらまい) を放出 (ほうしゅつ)

その後も、金次郎は他藩の領地 (りょうち) の復興や財政の立て直しに手腕をはっきしました。その手法は、やる気を育てるという点にありました。また、人のためにつくすという「徳 (とく) 」を説きました。天保の大飢饉 (ききん=農作物が実らず、うえ苦しむこと) の時には、藩の蔵米の放出に奔走 (ほんそう=走り回ること) するとともに、積立金を出してを救済 (きゅうさい) しました。55才のときにはその功績 (こうせき) がたたえられ、幕臣 (ばくしん) に登用されたのを機 (き) に、名前を尊徳とあらためました。

金次郎自身の名声も上がりましたが、「 (えらくなって) 駕籠 (かご) に乗っては土はわからぬ」といって、自分の生活を変えることはありませんでした。金次郎は生がいを村づくり、人づくりにささげました。金次郎が再建した町村は、605ヵ町村にのぼると伝えられています。

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