天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ) 元和七年 (1621年)〜寛永十五年 (1638年)

天草四郎時貞

島原の乱 (らん) の心のささえとなった16才の少年。圧政 (あっせい) に立ち上がり、90日間の戦いのすえに戦死した。妖術 (ようじゅつ) を使ったという伝説がある。

重い税 (ぜい) と飢饉 (ききん) に苦しむ農民のただ一つの希望 (きぼう)

島原地方はキリシタン (キリスト教徒) 大名の有馬家 (ありまけ) の領地 (りょうち) でしたが、領主の有馬直純 (ありまなおずみ) が別の領地に移動 (いどう) するように幕府から命 (めい) じられました。有馬家に代わって島原城主 (じょうしゅ) となった松倉重政 (まつくらしげまさ) は、有馬家につかえていた人たちの収入 (しゅうにゅう) を全てうばったので、元の家臣らは農民となりました。新しい領主である松倉重政は、本来は武士である彼 (かれ) らの存在 (そんざい) におびえていました。そのために農民には重い税 (ぜい) を課 (か) し、多額 (たがく) の米を差し出すように命令 (めいれい) し、それができない者にはむごい刑罰 (けいばつ) をあたえました。また、松倉重政は、キリシタンにも凄惨 (せいさん=すごくいたましい) な迫害 (はくがい) を行いました。それは、松倉重政のあとつぎである松倉勝家 (まつくらかついえ) の時代にまで続きました。

島原半島も、その南によこたわる天草の島々も、もともと山地が多く、耕地 (こうち) が少ない土地でした。さらに、凶作 (きょうさく) が続き、飢饉 (ききん=農作物が実らず、うえ苦しむこと) と重い税が農民たちをどん底におとしいれました。農民たちは木の根や草を食べて飢 (う) えをしのぎ、苦しんでいました。その農民たちのただ一つの希望が、その昔、天草に来たママコスという宣教師 (せんきょうし=キリスト教の教えを広める人) が残した「いまから26年目に必ず不思議 (ふしぎ) な力を持った、すばらしい人があらわれるだろう」という予言でした。

奇跡 (きせき) を起こすカリスマ少年

そして26年後、島原地方に不思議 (ふしぎ) な少年の噂 (うわさ) が流れます。その少年は、文字も習わないのに書物を読み、不思議な術 (じゅつ) を見せました。少年が手をさしのべると空から鳩 (はと) がまいおり、手に卵 (たまご) を産みました。その卵をわると中からキリシタンの経文 (きょうもん=しゅう教の教えが書かれている物) が出てきた、と伝えられています。

ほかにも、スズメがとまっている竹のえだをおっても、スズメはじっとしたままだったとか、天草と有馬との中ほどにある湯島という島まで海の上を歩いてわたったとか、その少年が起こす奇跡を見た、あるいは伝え聞いた人が多数いたと記録されています。どん底であえぐ農民が、この少年が起こす奇跡によって救われることを心の底からねがったであろうことは想像 (そうぞう) できます。この少年が、後にわずか16才で島原の乱の総大将 (そうだいしょう) となった天草四郎時貞です。

苦しみにたえかねて農民一揆 (いっき) で2万数千人が立ち上がる

寛永十四年 (1637年) の秋、苦しみにたえかねた2万数千人の農民が、天草四郎時貞を中心に立ち上がり、足かけ5ヶ月にわたって幕府 (ばくふ) にていこうして、天下をふるえ上がらせました。

一揆のきっかけにはさまざまな説があり、どれが正しいかは分かりませんが、全てキリシタンの反ぎゃくであるとしたのは、松倉家が行ってきた農民に対する過酷 (かこく) な政策 (せいさく) をごまかすために、事実をゆがめて広めたからだと伝えられています。しかも幕府はこの一揆を、キリシタンに対する警戒心 (けいかいしん) を高めるために利用しようと考えたので、全てを信仰 (しんこう) の問題にして、苛酷な重い税からは目をそらせるようにしたのです。

数回にわたる幕府軍の攻撃 (こうげき) に、原城に立てこもった天草四郎をはじめとする一揆軍は善戦 (ぜんせん) しますが、最後は幕府軍の夜襲 (やしゅう) にあい、全滅 (ぜんめつ) します。天草四郎も戦死します。しかし、一揆軍2万数千人に対して、幕府軍が動員した兵力は12万4千人、その費用 (ひよう) はおよそ40万両にたっしました。

後の世、天草にゆたかな村ができた

では、なぜ、わずか16才の天草四郎時貞が総大将に選ばれたのでしょうか。四郎は学問にすぐれたわか者でした。しかし、他にもたぐいまれなる美しいすがたや、神秘的 (しんぴてき) な力を持つという噂、救世主という予言。それらが重なり、天草四郎時貞の名が疲弊 (ひへい=つかれ弱ること) した農民たちの間で、口から口へと伝わっていくのを見て、島原の乱の指導者たちもまた、四郎が宣教師の予言通りの神の使いであることを信じました。キリシタン農民の勇気と希望のシンボルとして総大将の役割 (やくわり) を依頼 (いらい) したようです。

四郎は指導者の一人に呼ばれて突然 (とつぜん) 、総大将になることを懇願 (こんがん=ひたすらお願いすること) されました。
「あなたこそが、苦しんでいる農民たちを救う神の使い。総大将となるべき運命にある人です」。四郎は一度はことわりますが、考えぬいたすえについに、総大将になる決心を固めます。強大な幕府軍に勝てる見こみはなかったと思えます。もしかすると天草四郎時貞は、キリシタン農民たちの希望にこたえて、そのささえとなるために、自らの命をぎせいにして、神の使いという役割を果たしたのかもしれません。

島原の乱は、人間を尊重 (そんちょう) しなければ国は成り立たないという警告 (けいこく) を社会にあたえました。その後、島原と天草は新しく検地 (けんち) しなおされました。乱で人口が減少 (げんしょう) したため、九州、四国、中国などから農民を誘致 (ゆうち) しました。そして島原の乱の教訓 (きょうくん) をいかして、新しいゆたかな村ができたと伝えられています。やぶれたとはいえ、勇気を失わずに戦った農民の思いがいかされたのです。そして、その勇気のささえとなったのが16才の四郎でした。

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