稲作2000年の地の心が守る 宇和町の水と風景

宇和町

四国地方にある愛媛県西予市宇和町 (えひめけんせいよしうわちょう) は、2000年以上も前から米作りを続けてきた地いきです。ここでは、水不足に対して、ため池からの水路を作り、「水番制」という当番を決めて、一てきの水もむだにしない努力をしてきました。そして2006年には、新たに農業用水リサイクルシステムを作って、水不足をふせぎました。また、ここには名水百選として選ばれている「観音水 (かんのんすい) 」というものがあり、おいしい水として人気になっています。

宇和町では、米どころの伝とうを受けつぐために、町並みを守っていくことや、宇和米博物館の運えいをしています。宇和米博物館では、109メートルのろう下でぞうきんがけのタイムを競う「Z-1グランプリ」など、ユニークなイベントも行われており、「宇和米ブランド」をよく知ってもらうようにしています。

上の写真を見てください。工場や住宅は山ぞいにしかなく、広びろとした田んぼのなかにある建物はカントリーエレベーターだけです。それはこの町の人びとがずっと守り続けてきた農業の風景なのです。

水番は、あぜをわってもいい

米騒動

南予の米どころと言われている宇和盆地 (ぼんち) 。農業用水はため池がたよりとなっており、水路のネットワークのはしにある西予市宇和町は長年、水不足になやまされてきました。

宇和米博物館にある年表には次のようなことが記されています。

  • 嘉永 (かえい) 六年 (1853年) 七月
    旱魃 (かんばつ=ひでり) で、久枝村馬場において雨乞い (あまごい) 千人おどりを行う。
  • 明治六年 (1873年) 夏
    旱魃甚 (はなは) だしく、雨乞いが行われる。

(左下のイラストは大正7年、名古屋での「米騒動」の様子です。全国に飛び火したと伝えられています。)

水番

宇和町の農業用水をたくわえるために作られた「関地池 (せきじいけ) 」は、ため池としては県下第2位の大きさです。寛永 (かんえい) 21年 (1644年) に作られ、昭和37年 (1962年) に今の大きさに広げられて、約100万トンの水をためられるようになりました。それでも、広大な田んぼが、より水を必要とし、宇和町では水は不足がちでした。 そこで「水番制」という当番制を作り、旱魃 (かんばつ=ひでり) のひ害をふせぐ努力をしてきました。

西予市教育委員会の鈴木友三郎 (すずきともさぶろう) さんに、宇和町の水や歴史についてお話をお聞きしました。

鈴木友三郎

鈴木友三郎 (Suzuki Tomosaburou)
西予市教育委員会
文化体育振興課 文化の里振興室 町並み保存係 係長 (2011年9月現在)

鈴木さんはこの地の農家に生まれ、大学時代は考古学 (こうこがく) を学ばれていたそうです。

鈴木「第4紀 (=260万年前から今までの間) の堆積土壌 (たいせきどじょう) が宇和盆地を形成しています。2万年前に鹿児島・桜島 (かごしま・さくらじま) からの火山灰もふり積もっています。また、古代より水田がいとなまれていたというあかしの遺跡 (いせき) が、いたるところで確認 (かくにん) されております。米作りを2000回以上やっていることになります (笑) 。わたしも農家の生まれで、小さなころは、田植えなどで親戚 (しんせき) が集まって協同作業をするときに、わたしはお茶を入れたやかんと食料を持って行く差し入れ班 (はん) でした。中学生になると農作業を手伝っていましたね (笑) 」

鈴木「縄文 (じょうもん=約1万5000年前から2300年前) の後期あたりの土器も出てきます。少なくとも弥生時代 (やよいじだい=約2300年前から1700年前) からはかく実に米作りをしています。おそらく九州北部あたりから、かなり早い時期に、さまざまな文化とともに米作りが伝播 (でんぱん=伝わる) して来たのでしょう。標高は230メートルで、黒潮 (くろしお) が流れこむ宇和海とは標高400メートルほどの山でへだたり、温だんではありますが、春は水田、夏は青田、秋はおう金色の田、そして冬には雪景色も見られます。関門海峡 (かんもんかいきょう) から北風が入ると、雪がふります。海岸が雨でも、ここは雪になってるんです。『雪とわらぐろ』の美しい景色が見られる地いきです。同じ愛媛県でも、松山などの瀬戸内気候 (せとうちきこう) の場所は雪がふらないので、遠方から多くの方がカメラをかまえて雪景色をわざわざ見に来られます」

標高が高くて川が少ないので、山からしみ出してくる水でため池を作らないと、水が不足する地いきだったようです。

鈴木「谷間谷間に池があります。谷が200あって、その底にため池が200できた。このため池のおかげで、この地いき一帯が米どころになったのでしょう。文献 (ぶんけん=昔の書物) によりますと、江戸時代から池のかん理はできていたようです。江戸の税制 (ぜいせい=ぜいのせいど) がしっかりしてきて、増税 (ぞうぜい=ぜいをふやす) する代わりに池をなおすから、ということだったようですね。江戸時代の石高 (こくだか=こめのとれ高) をみると、この地いきでの現在の米の生産量の何分の一かという感じですから、圃場 (ほじょう=作物をさいばいする田畑) や水路の整びは、当時から脈々 (みゃくみゃく) と進んできたようです」

水不足のおそれがあると地区の人びとが集会を開いて「水番制」を行ったそうです。それぞれの田んぼに水を割り当てるという重要な役目「水番」には、信頼されている人が選ばれたそうです。

鈴木「みんなが池を見ていますから、渇水期 (かっすいき) は分かるので、『無いな、無いな』と言いながら、どれだけがまんするかなどを話し合います。高い位置にある田んぼに水を入れ、少ししめると、下の田んぼへと順々に水を流してしのいだようですね。ルールとしては、『水番は、あぜをわってもいい』となっています。『水番』さんが独自 (どくじ) に水路の付けかえを指示して、みなに水が行きわたるようにする。個人のけん利より『水番』さんのはんだんをゆう先すると。現在も、そのルールは残っています」

町並みを残す、伝統的建造物群保存活動 (でんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんかつどう)

伝統的建造物1

宇和町卯之町 (うのちょう) は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。保存地区は約4.9ヘクタールで、江戸時代中期以こうの町家が残る中町通りや、四国最古の小学校で、重要文化財 (ざい) の開明学校などがあります。

開明学校

鈴木「町並みの景観 (けいかん=けしき) に関しましては、農村地帯をバックに持ち、そこに物しを供給 (きょうきゅう=さし出す) して栄えたこの町並みを残そうと、町として積極的にすい進しました。農業への思いのあらわれの一つです。ゆたかな農業のおかげで学問のさかんな地いきとなりました。となりの市の農家からは、二宮敬作 (にのみやけいさく) という進取の気風の人物も輩出 (はいしゅつ) しています」

  • 案内図
  • 中町の味噌屋さんの貼り紙

二宮敬作は、シーボルトの一番でしと言われています。江戸時代末期に活躍した蘭学者 (らんがくしゃ=オランダ語の書物から学問を学んだ人) であり、また医学者 (いがくしゃ) でした。薬草について研究したことでも知られています。

現地の案内板
隠家

鈴木「二宮敬作は、となりの市の農家の出で、ゆうふくではないのですが、学問がしたくて、長崎に行きます。そこでオランダ商館付の医師 (いし) であるシーボルトの鳴滝塾門下生 (なるたきじゅくもんかせい) となりますが、シーボルト事件 (じけん) に連座 (れんざ=連たいせきにん) し、長崎から出て、この宇和町にもどり、居 (きょ=すまい) をかまえて医業を続けます」

シーボルトはドイツの医学者で、江戸時代に日本に来て、日本のことを調べたり、日本の医学者に教えたりしました。シーボルト事件は、文政11年 (1828年) 、シーボルトが帰国する時、持ち物の中に国外に持ち出してはならないとされていた日本地図などが見つかり、それらの物をシーボルトにわたしたり、おくったりした十数名がしょ分された事件 (じけん) です。シーボルトは日本の国から追放されました。

鈴木「二宮は、幕府の政策 (せいさく) を批判 (ひはん) し、投獄 (とうごく=ろう屋に入ること) 後、脱獄 (だつごく=ろう屋からにげ出す) しておわれていた鳴滝塾の高野長英を、自宅にかくまいます。その一部がかくれ家として残っています。宇和町にとっては、二宮敬作は塾を開き、医業を教え、幕末に新しい風を入れた人です。宇和町が古くから学問や教育分野のさかんな地いきとなった功労者です」

「水吐龍 (すいとりゅう) 」という明治時代の手押し式の消防ポンプです。

宇和米博物館の実験田

宇和米博物館1

伝統的建造物群保存活動とあわせて、宇和町では、この地の米作りの伝とう文化を受けついでいくために、宇和米博物館を始めました。昔の宇和町小学校を使ったレトロな博物館で、109メートルのろう下があります。米作りについての博物館で、国内外の稲 (いね) の標本や米の歴史、農具のうつりかわりなどについて、てんじされています。

宇和米博物館2
  • 宇和米博物館3
  • 宇和米博物館4

鈴木「ここは、宇和町の基幹産業 (きかんさんぎょう=重要な産業) である米のPRをおもな目的に、平成3年にオープンしました。また、実験田も作っており、さまざまなお米をさいばいしています。たとえば、全国では近年『田んぼアート』という動きがあります。稲で田んぼに絵をえがくというこころみです。それに利用されている色のちがう稲を育てたりしています。たとえば、これは高さが50センチ以下、穂 (ほ) が出ても、ぜっ対にたおれない稲です。田んぼアートにてきしていると思います (笑) 」

  • 実験田
  • 高さ50センチの稲

宇和米博物館のユニークなちょう戦が、この実験田から発信されているんですね。

神が味方した久米島のカンジンダム

空の水路・通潤橋 (つうじゅんきょう)