行基(ぎょうき) 天智七年 (668年)〜天平勝宝元年 (749年)

行基

奈良時代の僧。畿内を中心に諸国を巡り、教えを説いたり、土木・治水などの社会事業で貢献し、行基菩薩と慕われた。はじめ「僧尼令」違反で禁圧されたが、奈良の大仏造営の推進役に起用され、後に大僧正位を授けられる。

律令制度の苛酷な税や労働に苦しむ農民を救済

奈良時代は、すべての土地は朝廷が所有するという制度が徹底され、農民は口分田 (くぶんでん) を与えられて耕し、税を納めることとなっていました。しかし、この税の負担が重くて、耕作を放棄する農民もでて、口分田の荒廃が問題となっていました。飢饉が発生するなか、農業生産の拡大が課題となっていました。このような時代に登場したのが行基です。行基は、大乗仏教の僧は山林で修行するよりも、広く民衆を救うという本来の姿を取り戻さなければと考えました。諸国を歩いて教えを説きながら、洪水に悩まされている村では用水路を引いて村を守り、 日照りで水がかれて米ができない土地では谷川をせき止めて、池を作りました。その数は、行基の生涯を通じて架橋6カ所、道路1カ所、溜め池15カ所、用水路7カ所、水門3カ所、船泊まり2カ所、堀川4カ所にものぼります。

行基の神通力

行基がこれだけの社会事業を成し遂げることができたのは、技術者集団がついていたためという説があります。また、行基は和泉国大鳥郡 (現在の大阪府堺市) の生まれで、この地は当時、海外貿易の中心地となっていて、 朝鮮半島や中国から新しい文化・技術が入ってきていたため、行基自身にその知識があったともいわれています。道昭 (どうしょう) という僧から池や溝を開発する技術を学んだという説もあります。

また、15才で出家して山寺で山林修業を行い、この間に優れた神通力を身につけたともされています。「今昔物語集」にはこんな話があります。ある時、池のまわりに人々が集まって魚を食べていました。行基は、そこで膾 (なます=薄く切った魚肉を酢に浸したもの) を食べてみろと言われたのですが、行基がこれを口の中に入れて吐き出せば、みなことごとく小さな魚になってまた池に戻ったそうです。

三世一身の法のニーズに合致

朝廷ははじめ、この行基の活動が気に入らず、養老元年 (717年) 「小僧 (しょうそう) 行基ならびに弟子らは僧にあるまじき非行をおかしている」と名指しでその活動を禁止しました。しかし、行基集団は拡大を続け、用水路や池作りをやめなかったのです。

一方、朝廷は田んぼの拡大をめざし、722年百万町歩開墾計画を出して開墾を奨励しました。しかし効き目がなく、翌723年三世一身の法を出しました。自発的な開墾を奨励し、新しく開墾した土地は三世代、手直しして使えるようにした土地は本人一代限り私有を許可するという法律です。このときから、用水路や池を開発をする行基の活動は地方豪族を中心とする社会的ニーズになっていきました。

行基の影響力を無視できなくなった朝廷は、やがて行基の活動を認めます。さらに、奈良の大仏建立事業を依頼します。奈良の都に東大寺と大仏を作る計画があり、これはすでに存在する有力寺院と対立することでもありました。そのため、骨組みを焼かれるなどの妨害が発生しました。朝廷は行基に推進役を依頼しました。すると、行基様がなさるのなら、と多くの人々が協力したそうです。その後、行基は日本で最初の「大僧正」に任命され、また大菩薩号を受け、行基菩薩と称せられました。749年 (天平21) に菅原寺でその生涯をとじます。752年の東大寺の大仏完成を見ることはできませんでした。

田んぼ作りの先駆者

行基に対する尊敬の念は、行基が生涯をとじた約50年後に完成した「続日本紀」でも「今に至るまでその利を蒙れり」とたたえられ、さらに平安時代、江戸時代と時を超えて続きます。狭山池 (大阪府) や昆陽池 (兵庫県) も行基が造ったもので、いまも満々と水を湛えています。田んぼや溜め池は農業を営む人々が何千年にもわたって、山を切り盛りし、荒れ地を開墾し、水の流れをコントロールして作り上げた人工のお米栽培装置です。行基はまさに、その先駆者といえます。養老元年に朝廷から名指しで禁圧されながらも、十数年もの間、田んぼの開発活動を維持していますが、それができたのは、やはり行基に何らかの神通力が備わっていたからでしょう。その維持のためにどれほどの苦労があったのか、詳細は分かっていません。

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