宮崎安貞(みやざきやすさだ) 元和九年 (1623年)〜元禄十年 (1697年)

宮崎安貞

江戸前期の農学者。福岡藩に仕えたが、後に自ら農業に従事した。諸国の篤農家を訪れて農業を研究し「農業全書」にまとめた。

各地の農村を訪ね、老農の話を聞いて歩く謎の人物

江戸時代も50年以上続き、世の中が安定してきた寛文の頃、九州から紀伊、伊勢などに、不思議な人物の噂が流れました。武士のように見えますが、刀は差していません。山の形や野の様子、川の水利などをせっせと写生しています。立ち居振る舞いは上品で、お米やお金についての話、日本や中国の昔話などには大変詳しい。では学者かと思えば、手には鋤 (すき) や鍬 (くわ) を握ったタコがある。全国各地に旅をして、有名な老農を訪ねては、一心に話を聞いている。この武士なのか、学者なのか、農民なのか分からない不思議な人物が宮崎安貞です。大蔵永常、佐藤信淵とともに、江戸時代の三大農学者と言われた一人で、40年以上の歳月をかけて「農業全書」をまとめました。

刀を捨てて、鍬を握り、中国の農書や老農の教えを実験

安貞は、広島藩主浅野候に仕え、二百石の禄米 (ろくまい=給与のこと) を与えられていた豊かな武士の家に生まれましたが、ある時、父は禄米を取り上げられて失業します。この頃は、徳川幕府は武家諸法度などの規則を作り、幕府に協力的ではない大名をつぶしたり、領土を替えたりして天領 (てんりょう=江戸幕府の領地) を増やしていました。ついには天領が日本全国の約四分の一にもなり、武士の失業者が全国にあふれました。

ところが、安貞は25歳の時に、二百石禄米での福岡藩の黒田候の家臣となります。武士の失業者があふれるなか、父とおなじ禄米をもらって福岡藩に採用されたのですから、群を抜く才能を買われたにちがいありません。しかしある時、安貞は黒田候の禄米をあっさりと捨てて、旅に出てしまいます。

さらに旅から帰ると、今度は刀まで捨てて志摩郡女原村 (現在の福岡市) に住みついて農業を始めます。その間に世は元禄の時代に移り、文学や演劇、絵画などが一気に花開き、数多くの文化人が生まれました。安貞も江戸にいれば、そういう文化人の一人として名をなしたかもしれませんが、彼は職を捨てたばかりか、学者としての道も選びませんでした。ただひたすら村民を励まして開墾を奨励し、自分も鍬をふるって耕し、その合間を縫って中国の農業書をかたっぱしから読み、すこし時間があると近畿、中国、九州の各地に出かけて経験の深い老農の話を聞き歩きました。そして村に帰ると、それらを実際に自分の農地で実験しました。

貝原益軒・楽軒の協力のもと全11巻の大書が日の目を見る

安貞はそんな生活を40年も続けました。その間に「農業全書」をまとめたのです。また、本草学 (ほんぞうがく、薬物についての学問) の科学者であった貝原益軒と、その兄である楽軒と「世の中のことを考え、農業を発展させたい」という同じ思いを持つ仲間として親交を深めます。益軒には農業全書の序文を書いてもらい、楽軒には、内容についての訂正や出版の世話を頼みます。楽軒は、書の大半ができてからも、さらに目を通し、足りないところを書き加え、それが本文の10巻の他にもう一冊、付録として付け加えられたのです。

また、徳川光圀公がこの書物を目にとめて誉めたたえたのも、当時無名の安貞だけの力ではとうてい不可能で、水戸にいた楽軒の知人を通して光圀公のもとに届けられたからだ、と言われています。

全10巻と1巻の付録からなる「農業全書」は、第1巻は農業総論として耕作、種子、土地を見る法などについて書かれ、2巻以降は五穀、畑の野菜、山野の野菜、茶、家畜や薬草、施肥、除草や除虫など、農業についてのあらゆるものごとを詳しく記述しています。

農民を愛し、農民救済のために生きた日本の農学の父

「農業全書」は、元禄十年(1697年)に刊行され、各地に普及しました。明治になって西洋の自然科学による農学書が出るまで、ほぼ二百年の間、近代農業の発展に寄与してきました。

大蔵永常、佐藤信淵は大名のもとでその手助けをし、大名を豊かにすることが目的でしたが、安貞の最大の目的は農民の救済でした。安貞は「農民が技術的に水準が低く、そのために、豊かで明るい生活の道をたてられない」ことを嘆き、自分の能力を顧みず農業の書を著すことを思い立って、この「農業全書」を完成させたのです。

「農業全書」では農業技術のことだけではなく、農政についても確固たる意見を述べています。農民が貧しいことを愁い、穀物の蓄積、倹約に勤めることをも説いています。また、植物の名前をはじめ、ほんとんどの漢字には、読みやすいようにふりがながふられ、イラストも数多く掲載しています。

日本は瑞穂の国と言われ、大昔から農業国として成立していましたので、特別な技術がなくてもある程度の収穫はありました。しかし、農民の発明や発見は親から子へと口伝えに伝えられるだけで、それを書物として記録することはなかったようです。宮崎安貞は、「農民が富まざれば、国富まず」の考え方を貫き技術書を確立しました。「農業全書」は、農業の技術書として重要であるだけではなく、農民の生活を応援する激励の書でもありました。それは長きにわたって、農民の心のささえとなったのです。

天草四郎時貞

徳川光圀