北条泰時(ほうじょうやすとき) 寿永二年 (1183年)〜仁治三年 (1242年)

北条泰時

鎌倉中期の武将。鎌倉幕府の第三代執権 (しっけん) 。承久の乱が起こると叔父である北条時房とともに京都に攻め込み、勝利した。その後執権となり、御成敗式目の制定をはじめとして、道理を理念とした政治に努めた。若いときから民のために力を尽くした人であり、名君として高く評価された。

飢饉で貸付米の証文を焼き払い、米と酒を配給

平氏に対して源氏が兵を挙げて壇ノ浦で破り、その後建久三年 (1192年) 、源頼朝が征夷大将軍となって武士政権である鎌倉幕府が成立しました。源頼朝の死後、その妻・北条政子や北条義時らが実権を握り、執権政治が始まります。執権とは、将軍を補佐して政務を統括する最高職で代々北条家が継いでいました。その第二代執権・北条義時の長男として、北条泰時は寿永二年に生まれました。

泰時が19歳のときのこと。毎日蹴鞠と酒宴に興じている将軍・頼家をいさめました。鎌倉幕府の編纂といわれる武家記録「吾妻鏡」によりますと「大風が吹き飢饉のおそれがある時に、陰陽学者に聞かれた上で大事がなければ蹴鞠もまたいいでしょう。しかし、頼朝公も天変地異のときは、浜への遊びもやめ、ご祈祷をなさった。それに比べると、納得できません」と言ったそうです。この言葉が頼家の怒りを買います。周囲の者が、しばらく病気と称して伊豆に行かれてはとすすめました。泰時は「いや、将軍の怒りは関係ないのです。緊急の用があって明日伊豆に参らなければならないのです」と言って、伊豆の北条に帰りました。そのとき、伊豆の国は大変な飢饉にみまわれ、農民が苦しんでいたのです。不作のために疲弊し、税である米を納めるどころか、出挙米 (すいこまい、領主からの貸付米) も返済できず、逃亡の準備をしている者もいました。泰時は飢饉に苦しむ農民を集めて出挙米の証文を焼き払ったといいます。そして酒や米をふるまったそうです。将軍に諫言し、一方で自ら人々の救済に駆けつけたのです。

御成敗式目による「道理」を理念とした社会作り

鎌倉幕府が成立しても、京都では朝廷や公家、寺社が強い勢力を持っていました。京都で院政を行なっていた後鳥羽上皇は、政権の奪取を計画し、承久三年 (1221年) に挙兵しました。この乱を承久の乱といいます。北条泰時は、この年39歳。父の代わりに18騎で鎌倉を出発、途中で他の兵と合流し、叔父・北条時房とともに、東海道大将軍として幕府全軍10万を率いて京都に入り、後鳥羽上皇軍に圧勝しました。

元仁元年(1224年)、父・北条義時の急死により鎌倉に戻り、叔母である北条政子の指名により第三代執権となり、第四代将軍・九条頼経の補佐を務めることとなりました。貞永元年(1232年)、初めての武家成文法として名高い「御成敗式目」を制定しました。これは「弱者を見捨てず、どんな立場の者も道理に従うこと」を理念とした、武士の秩序を正すための法律で、五十一条からなります。

鎌倉時代は、武士は日頃は農村に住み、領地の経営や荘園の管理にあたる米の作り手でもありました。特に御成敗式目の第七条と第八条では、将軍から与えられた領地は、それ以前の所有者を名乗る者が現れても返還する必要がなく、また現在の領地を二十年以上治めている場合は、いかなる場合もその支配権を保証すると明言しています。これは鎌倉幕府の家臣である御家人 (ごけにん) の土地を保護するものですが、これにより土地を巡っての争いは結果的に押さえられ、農地の安定化につながっています。

大飢饉では自らの命が危ないほど節食

寛喜元年 (1229年) 7月は、真夏に雪が降るという大冷害がありました。また、8月は大風雨で農作物は被害を受け、草木は枯れたと言われます。逆に冬は暖冬異変で京都では12月に桜が咲き、セミが鳴いたと伝えられています。そしてついに、寛喜二年 (1230年) から寛喜三年 (1231年) にかけて、大飢饉となりました。米も麦も枯れ、餓死者が続出しました。

北条泰時は徹底した倹約を進めます。武士に衣食の贅沢を禁じました。畳・烏帽子 (えぼし) ・衣裳の新調を停止し、夜は灯を用いず、昼食は抜き、宴会や遊びはとりやめるなど、あらゆる贅沢を禁じました。北条泰時自身、率先してこれを守り、歌人・藤原定家は泰時の減食について「病気でなくとも存命しがたし」と「明月紀」で述べているほどです。

また、北条泰時の地元である伊豆、駿河で米倉を有する富裕者に出拳米 (すいこまい) を放出するように命じ、それによって農民を救済しました。返済能力が無い農民の場合は、自分が代わりに返済することとしました。この出拳米の総計は九千石にも達しました。また美濃をはじめとして千余町の年貢を免除し、旅人にも食糧を与えたと伝えられています。

平和がもたらした農業の発達

北条泰時は、藤原定家を師として和歌をたしなみ、定家撰の「新勅撰和歌集」に三首採用されています。また、学問に通じており、高僧を敬い、芸能を愛したそうです。しかし一方、若い頃は流鏑馬 (やぶさめ) の射手も務め、承久の乱を征した優れた武将でもありました。北条泰時が執権を務めている間は、珍しく平和な時が続いています。しかし、記録には残っていませんが、動乱の種子はいくつも存在していたはず。それを未然に防いだ北条泰時は、名君でありながら、やはり優れた武将だったのでしょう。

そしてこの平和な時代に、農業は発達し、生産高も大きく伸びました。牛や馬の力を利用して土地を耕す技術が広がりはじめました。灌漑・治水が行なわれて、水田に水を引くために水車が使われ、金属製の鎌 (かま) や鍬 (くわ) 、鋤 (すき) などを専門に造る鍛冶も生まれました。刈敷・草木灰などの肥料も使用し始めます。また、米を早く手に入れようとして、早米を作らせたという記録もあり、二毛作も始まっていたようです。平和の維持による農業生産高の向上、それは想像の翼をひろげると、飢饉の農民救済に駆けつけた青年・北条泰時が構想した壮大なビジョンだったのかもしれません。

鎌倉時代後期に成立した史書「吾妻鏡 (あずまかがみ) 」の記載では、泰時は自らを顧みる余裕もないほど仁政に励み、人々にその清廉で潔白な人柄を愛されたと記録されています。暦仁元年(1238年)、病を患い、60歳で永眠。このとき、あらゆる立場の人々が嘆き悲しんだと伝えられています。

安倍晴明

武田信玄