大原幽学(おおはらゆうがく) 寛政九年 (1797年)〜安政五年 (1858年)

大原幽学

江戸後期の農村指導者。神・儒・仏に通じ、諸国を遍歴した。農村救済のために組織した先祖株組合は、農業協同組合運動の先駆となった。農村の父と呼ばれる。

18歳で勘当され、諸国を放浪

大原幽学は寛政九年 (1797年) 、尾州藩 (現在の愛知県) の重臣の家に生まれました。18歳で親から勘当されます。勘当の理由は定かではありませんが、藩の剣道師範を果たし合いの末に切り殺して勘当されたという説があります。幽学自身が後年、遺書に「時に僕十八歳にして漂泊の身となり」と書き記していることから、何らかの理由で勘当され、放浪の身となったのは確かなようです。

幽学の父親は、勘当するにあたって、大小二本の刀と三両の金、そして三カ条の訓戒を与えました。「武士たるもの、みだりに身を捨つべからず」「他国の君主に仕うることあるべからず」「民家に子孫を残すべからず」。

幽学は、武者修行の姿となり、訓戒を守りながら諸国を放浪します。大和の国では道場に滞在し、剣の腕前で全員をうち負かします。ある夜、幽学が歩いていると手裏剣が飛んできて、太股に刺さりました。幽学は、手裏剣が刺さったまま道場に戻り、「卑怯な者がいるものだ。なぜ正々堂々と決闘を申し込まないのだろう」と言ってから、手裏剣を引き抜いたと伝えられています。剛胆な人物だったようです。

門人を集めて、世界初の産業協同組合を組織

幽学は各地を放浪しながら神道や仏教、儒教、易学などを学びます。やがて道徳と経済の調和を図る実践的な独自の哲学を打ち出し、農民や商人の道を説くようになりました。人間が本来持っている良心に従って生きることを人の道として、その道を進むための教えで、次第に門人が増えていったようです。

天保七年 (1836年) 、幽学は門人たちに「子孫永々相続講」を提案します。これは、1回百文を掛け金としてお互いに契約を結び、年に2回、門人たちが大会を開いて、やむを得ない事情で困窮に陥った人に対して助成金を支払うというものです。幽学が門人たちに提案したルールでは、「誓約之事」として博奕や狂言、手踊、浄瑠璃、長唄、三味線の類、強欲、大酒などは禁止で、これを守らない場合は破門と規定しています。そのうえで、相互扶助をはかろうというものでした。

さらに二年後の天保九年 (1838年) 、幽学は「子孫永々相続講」をベースに「先祖株組合」を提案します。「先祖株組合」は門人たちで共有の財産を作るというものです。幽学の指導のもと、下総国 (現在の千葉県) の長部・諸徳寺・幡谷・荒海の4つの村で、門人たちによって農地出資による講の結成が行われました。この「先祖株組合」は、世界初の産業協同組合であるといわれています。その後、幽学と門人たちはさらに、先祖株組合を門人だけのものではなく、村ぐるみの組織へと推進しています。

香取郡長部村に定住し、合理的農業経営で村を発展させる

香取郡長部村 (現在の千葉県香取郡干潟町) の名主・遠藤伊兵衛は、幽学の熱心な門人でした。彼は天保十三年 (1842年)に住居を整えて幽学を迎えます。父親に勘当されてから28年後、46歳の幽学は再び定住の家を得ました。そして、この頃から幽学の指導も、精神的な側面を主にしたものから農業経営そのものに重点が移っていきます。

幽学は「分相応」という考えを示し、それを農業にも応用しました。年間の労働力を計算し、一町の田んぼで米を作るのが分相応な農民は、それに従って、一町の田んぼで米を作るべきだと説いたのです。それが一町二反の田んぼで米を作ろうとすると、仕事が追いつかず、肥料も少なく、地面も荒れる。その結果、収穫が減少して年貢だけが多くなり、身代が衰える。分相応を守らないのは欲張った心のせいであると唱えました。労働力に見合った耕作規模で、合理的、集約的に経営することを指導します。また、稲作の日程の変更や苗の浅植え、苗の持ち方にいたるまで、具体的な指導書を作り、耕地整理も進めたと伝えられています。その結果、長部村はめざましい発展を遂げました。

幽学のまいた小さな種が、農業協同組合へと実を結ぶ

嘉永元年 (1848年) 、長部村の発展を見た領主・清水家は村民を表彰し、幽学の指導は村の規範とすべきものとしました。幽学の門人となる農民は飛躍的に増え、ついには400人ほどとなり、家を新築するほどでした。新しい家・改心楼の新築にあたって、幽学は武士の頃を思い出したのか、城郭のような建物を望んだと伝えられています。

嘉永四年 (1853年) 四月、常州新治郡の村人5人がこの改心楼を訪れて入門を申し込みました。応対に出た門人が「すぐには入門できない」と答えると、「せめて一目、幽学先生に会いたい」と押し問答になり、5人は酒を飲み、幽学のもとに押しかけ、これを止めようとした門人に怪我をさせられたから金を出せ、などと幽学をおどし、騒ぎは大きくなっていきました。この騒ぎは翌年二月に正式に取り上げられて裁判となり、その裁判は足かけ6年にもおよびました。結果、双方が有罪となりました。幽学にも有罪の裁きが下されたのです。理由は、戸籍上の手続きをすることなしに長部村に永く居住していること、農民に不似合いな、城郭のような改心楼の構築を指導したこと、そして先祖株組合を勝手に結成したことです。百日の押込めの判決が下され、江戸の身内の家で百日の謹慎期間を過ごした幽学は、いったん長部村に帰り、門人らに迎えられます。その後、門人に遺書を残して、生家から遠く離れた下総国香取郡の山林で、父から与えられた大小二本の刀と三両の金を傍らに置いて、割腹して世を去りました。無念の自決であったと思われます。しかし、幽学のまいた小さな種はやがて、農業共同組合へと実を結びます。

二宮尊徳

坂本龍馬